私は何者か

ほら、また変なことを言い始める。私は何者か、とか。


実際「何者」でもないわけだけれど、どうやら人間にはそれぞれ特徴があって、それぞれ感じやすい感情があって、それぞれ半自動的に行なっている行動や思考があって、今言ったすべてを複雑に混ぜ合わせて出来上がる「こうやって生きたい」という「イメージ」があるみたいなのだ。多分、僕とあなたは、見た目だけじゃなくて、あらゆるものが異なる。


問題は、自分のことを自分で知ることなんて出来んのか?である。だって自分が自分のことを考えるときは、少し色眼鏡をかけてみてしまったり、逆に極端に蔑んでしまったり、なかなか難しいのではないか。確かに、難しい。


でも、例えばの話。


勉強が好きではなかった幼少期を過ごした僕は、現在27歳になって、勉強ばかりするようになった。「知らないものを増やすためには、知っていることを増やさなければならない」と誰かが言ってたけど、最近になって、知っていることが圧倒的に増えてしまった僕は、圧倒的に知らないことが目立つようになって、どうやら「知識を得る」という作業に取り憑かれてしまったようなのだ。自分を守るためでもあるのかもしれない。何も知らない、じゃ済まされない段階にいるということもあるのかもしれない。


それはともかく。


この「勉強が嫌い」と思っていた過去の自分と、「勉強をしたい」と思っている今の自分は、何が異なるのだろうか。ここに「何者」のヒントがあるのだと思う。なぜ、変化したのか。その間に何があって、どこにやってきたのか。そういうことを考えると、自分がたった今立っている道が少しずつ鮮明に見えてきて、顔を上げると、少しだけ未来のことが見えたりする。それは幻覚かもしれないし、本当に待っている出来事なのかもしれないし、結局わからないのだけど、何かが見えている分だけ、足取りは確かになる。みんな、足取りを確かにしたくて必死だ。僕も。


世の中から「暇」な時間が抹消された。暇な時間は、辛いし、ソワソワする。暇だったら、すぐ近くに置いてある四角い端末をさわれば、買い物も、勉強も、リラックスも、コミュニケーションも、何もかもができてしまう。なかなか「ちょー暇」をつくりだすことは、難しくなってしまった。「暇な時間」に、ぼーっと考えるのが大事なんじゃなかったっけ…?


自分とは何者なのか?


そもそもそんなことを考えている奴は、暇なのだろうか?それとも、忙しいのだろうか?僕は「暇」な時間を勉強に当てられるように、何があっても四角い端末を見れば勉強ができるような仕組みをたくさん作って「しまった」。オンラインでも、オフラインでも、暇な時間を勉強に当てられるように。なんて、矛盾しているのだろう。


だけど一つだけ思うのは、いつも暇な奴は、暇の価値がわからないし、いつも忙しい奴は、忙しいことの価値がわからない。


意図的に「暇」や「忙しい」をつくりだすことが、僕にとっての最適解なんじゃないかと、現時点ではそう思っている。時間の使い方を、考えないと…ああ、忙しい。





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