河内一馬 / Kazuma Kawauchi

記事一覧(88)

最後の夜をまえにして

夜に眠れない…という経験をしたのは、アルゼンチンに来てからが、生まれて初めてだったことを思い出した。「どこでもいつでも寝れるのが特技」と思っていたくらいの自分は、夜にベッドに入っても寝れなくて困る、という出来事が自分に起こるとは思っていなかったけど、考えてみてたら、こっちに来てからすやすや気持ちよく眠れた夜は、あまりなかったのかもしれないなと、昨日の夜、なぜか全然寝れない間に考えた。単純にベッドが硬かったり、枕が合わなかったり、ルームメイトがうるさかったり、そういう原因で寝れなかったのかもしれないけれど、それだけではなかったなと思う。何かを考えすぎてしまったり、何かが怖かったり、あまりに嬉しかったり、そういうことがたくさん起きた。遠足の前日だってすやすや眠れた自分だったけれど、大人になると、人生はもっと複雑になるのかもしえれない。そういうことを考えるのも、いつも夜だった。思いが詰まっているこの部屋で寝るのも、あと一回。酒を飲んで眠りに入るのも、物思いにふけながら寝るのも、好きな映画を観てから寝るのも、どれもいいきがする。自分しかわからない、切なさと哀愁があって、いい。最後の夜は、いちばんの友達と過ごす。正直、どうやって気持ちを伝えたらいいのか、わからない。ありがとうも、本当にありがとうも、ハグも、ハイタッチも、全て使ってしまったから、これ以上、どうすれば彼に感謝の気持ちを伝えるのが良いのか、わからない。確か1年目だったか、彼に感謝を伝えたいのにスペイン語の語彙力が伴っていなくて、あまり気持ちが伝えられなかった時、後悔というか、自分の情けなさに眠れなくなった夜も、あった。アルゼンチンで迎える、最後の夜。僕はまた、眠れない夜を過ごすのだろうか。部屋から出て、テラスに行き、水を飲むのだろうか。電気をつけて、日記を書いて、本を読んで、そのうちに眠っていくのだろか。せめて、後悔で眠れないようなことにはなってしまうなと、そう思っている。涙とかが出てきてくれると、いいんだけど。最後の夜だ。最初の夜とは、大違い。

幸せと

長い長い戦いが、終わろうとしている。出口の見えなかった道で、突如光が自分のことを照らす。あと10日ほどで、僕は3年住んだ国から、自分の国へと旅立っていく。長かったと言えばそう思うし、ついこの間きたような気もする。最後の年がこんなだったから、きっと複雑な感情を伴っているのではないだろうか。やり切ったと言えばやり切ったし、悔いが残ると言えば、もちろん残っている。でも、清々しさは、ある。久しぶりに、というか今年初めて、友達とちゃんとした「お出かけ」をした。自然豊かな場所で、綺麗な景色を見ながら友達と過ごす日常は、本当に、ありえないほどの幸せを感じさせた。そしてなぜだか、ここにきて突然、外国語で彼らと話す自分を、いくらかたくましく思えた。誇らしくも思えた。お前はここにきて、ひとりで頑張って生きてたんだぞ、と誰かに言われている気がしたのだ。人は幸せを感じるとき、必ず誰かがそばにいる。こんなにありきたりなことは言いたくないのだけど、でも多分、誰よりも自分の言葉として言うことが出来る。僕は今それを、知っている。去年まで、そんなことは思ったことはなかったと思う。僕には誰かが必要で、それを声に出して叫びたいくらいに、強く、深く、感じている。今年は本当に、誰もいなかった。誰とも時間を共有出来なかったんだ。世界で誰一人として、今年の本当の自分を知らない。いつかそのことを誇らしく思うことも、また知っている。今はありきたりなことしか言えないけれど、いつかこの事実は、あらゆるものを引き付けて、解き放って、別のものになるんだ。僕はそれを、生きて待ちたいと思う。たくさんの人が、たくさんの人と時間を共にしているのを見て、ああ、僕はひとりだったんだ、と思った。夕日を浴びながら、そんなことを思った。ありえないほどの幸せと。

知るとき

高校生のとき、僕は顔面を骨折した。下顎骨骨折、というのが正式な名称だった気がする。他人の膝が入り、僕の顎は見事に破裂したわけだけど、よく失神せずにいられたな、と思う。そのままプレーを続けようとして立ち上がってはみたものの、明らかに上の歯と下の歯が違う場所にあって、顔が曲がっているのが自分でもよくわかった。ボールが自分の方向に飛んできたとき、頭で触ってはダメだと本能がボールを拒否した時点で、僕は諦めてピッチの外に出た。練習場から家までは、電車とバスを乗り継いで1時間以上はかかる。電車の中で明らかな異変に気が付きながら、自力で家に帰り、鏡を見た瞬間に「これは普通じゃない」と思った。それと同時に、両親は僕の顔の腫れ方に驚愕し、日曜日の緊急病院へ車を走らせた。その辺のことは、よく覚えていない。レントゲン室の中は、外から窓を通して中が見えるような作りになっていた。僕のレントゲンを見ている女性のレントゲン技師さんが、わかりやすく、目を見開いて顔をレントゲンに近づける。あんなリアクション、ドラマでしか見たことがない。「痛みますか?」と当たり前のことを聞かれ、「折れてますか?」と回答した僕に対して、「詳しくは担当医から聞いてください」と、イエスを言わずにイエスを伝える彼女の、イエスを読み取った。担当医の前に座ると、「折れています」と、ど素人が見てもわかるレントゲンを見せられた。次の日、紹介された病院で再検査をすると、「入院をして、手術です」と言われた。数週間後に人生で一番大きな舞台で行われる試合を控えていた僕は、出れますか?と聞き、鼻で笑われる。あの試合のためだけに頑張っていたのに!…と暴れることもなく、冷静に状況を受け止めることが出来たのは、多分、自分には必要な出来事が起きているのだ、と、そんなことを思っていたからだと思う。ボルトを入れる手術と、ボルトを抜く手術を、2回した。全身麻酔。手術の前には人生でいちばん痛い経験を口の中で経て、手術の後には鼻から栄養を入れ、口を開けず、病院で退屈な日々を過ごした。人間は、何かを「知るとき」があるなと思う。「気付く時」と言ってもいい。僕はその入院中に、自分がサッカーを猛烈にやりたいと思っていないことに気が付き、それよりも何か義務感や、焦りのようなものが頭を支配していることに気がついた。その時に、僕は高校を卒業したらサッカーをやめるんだ、ということを知った。知ってしまった、の方が近いのかもしれない。小さな頃から続けていた、それだけをしていたようなものを、後少しでやめることになる。やめたら、なにをしたらいいんだろうと、その時に初めて考える。もちろん、なにも浮かばなかった。顔が少し曲がってしまってそれ以来写真に写るのが嫌になってしまったこととか、口をあけるリハビリが長期間苦しかったこととか、歯茎にワイヤーを通すのが痛かったとか、そういう類の苦しみよりも、何かを「知ってしまった」ときの寂しさの方が、よっぽど大きかったように思う。もちろん、当時はそんなこと他人に言えるはずもなかったんだけど。あの時、長いこと入院をして、手術をしていなかったら、今の僕はどうなっているんだろう、とたまに思う。そんなこと考えるだけ無駄なのはわかっているけど、何か人生に静寂のようなものが訪れた時、僕はたまに過去を振り返る。いま、僕の人生には静寂が訪れていて、ある意味入院をしている時よりも、静かで不気味な波の中を生きている。決して心地が良いとは言えない、静寂。多分また、10年後くらいに僕がまだ生きていたら、今のことを思い出すのだと思う。あの時、もし普通の暮らしをしていたら、どうなっていたんだろう、と。2020年は、いろんなことを知ってしまった。それがポジティブなものでも、ネガティブなもので、あの時と同じ寂しさのようなものを覚える。人間はきっと、死に近づくに連れて多くのことを知る。そのたびに、ある種の寂しさを伴う。そう考えると、この寂しさは、ぜんぜん悪いもんではないなと、思う。

偽物

答えのないことについて、答えが出るはずもないことについて、話したあと。世界を俯瞰的に見ると、自分がいる世界が偽物のように思えてきて、それが自分を苦しめる時がある。でもその苦しみも、偽物のような気がするんだ。僕は僕の世界で生まれて、僕の世界で終わっていく。その事実は変わらないだけど、その世界を少しでも広げようとするのは、何故なのか。僕なんて、運が良かった人間なんだから、そのままその世界にいろよと、そう思うこともある。けれども、僕とは違う境遇に置かれている人を、肉眼に入れよとするのは、何故なのか。それでいて、何か手を差し伸べることも、できない自分を直視して、苦しむこともある。でもそれだって、偽物の苦しみなんじゃないだろうか。世界では、人を種で分けて、種と種が、またその種を守る種が、争いを続けている。神様がいるのであれば、どうして人間の、見た目を変えてしまったんだろう。全員白人だったら、全員黒人だったら、全員黄色だったら、こんなことは起きなかったはずなのに。奴隷制度がなければ、資本主義なんて成り立たないことは、みんなわかっている。でも。どうしたらいいかは、わからない。答えが、ない。そう考えている僕だって、誰かからしてみたら、社会の奴隷かもしれない。満員電車に乗らなければお金が稼げない人が、どうして奴隷じゃないと言えるだろうか。わからない。大人になったんだなと、思うことがある。それは僕の内面が変わったのではなく、数字が大きくなって、その数字が、社会の中で大人と子供を分ける指標として使われているからだ。大人には、責任がある。社会で生きているからだ。一人で生きていると思っている人は、必ず周りに人がいる。もしくは、いたはずだ。自分が子供の頃、見上げた先の景色にいた大人たちは、どうだっただろうか。子供とは未来をになっていく生き物で、その生き物に対して、大人は責任がある。そんなの、当たり前じゃないか、と思う。大人になるとは、子供にも戻ることができないということだ。何が言いたいのかは、わからない。90日以上家にいて、自分のスタンダードがわからなくなっている。鬱になるのも、増えている。でもそれほど、辛くはない。これもまた、偽物の苦しみのような気がしている。明日は、晴れるだろうか。今晴れているかすら、家の中からはわからないけれど。

どこで生きて誰と生きているのか

はじまりへの旅という名前の映画を観た。現代社会から離れ、森の中で自給自足の生活をする家族が、母の自殺を機に「社会」へ出ていく。結局「社会」とはなにで、どこで、誰で、僕たちはほんとうに「社会」で暮らしていく必要があるのか、ないのか、そういうことを考えさせられた。思えば、僕は森の中に住んだことはないけれど、初めて一人で日本から外に出たときに、同じような感覚をもった。どれが社会で、僕は誰で、誰と暮らしていくことを強いられていて、森へ帰るべきなのか、そうではないのか。そういうことを考えた。今は外国に住んでいて、それも日本から遥か遠い国に住んでいて、そんなようなことを考えなくも、ない。どこにでも暮らせるように、と思って生きてきて、でも自分にはそんな力はないと疑い、ここで生きている。僕はそんな感じだと思う。心地が良い、安心する、そういうことを蔑ろに出来ない自分に気づいたのは、多分ほんの数年前で、というか外国に住み始めてからで、これから自分が歳を重ねていったとき、もしくは死ぬまで一緒にいたいと思えるような人と居るときに、僕が「場所」になにを思うのかは、一向にわからない。機械を通して、人間の顔を見るようになってから、久しい。場所という概念を壊せるんじゃないかと人は言うけれど、僕にはまだ一向にそうは思えない。会いたいという感情を薄く伸ばしているだけで、ほんとうに会いたい人に会えない虚しさは、多分、誰だって誤魔化しながらもっている。テクノロジーの進化が、「どこに居たって構わない」と思う理由になることは、僕には一生ないと思う。私はレイシストだと、アメリカ人は言った。黒人が警察に殺されてしまったことをきっかけに起きている抗議運動について、英語の先生と話をしている時だ。私はアメリカで、白人に生まれた瞬間に、レイシストなのだと。もちろん彼女は、そうではない。でも、そういう自覚を持たざるを得ないことは、日本で、アジア人として生まれた僕にはなかったことだった。白人として生きることとは、一体どういうことなのだろう。場所が違えば、例えば森で暮らしていれば、そんなこと考えることもないのだろうか。例えば僕が、日本で女性に生まれていたら、どういうことを思っているのだろう。知ろうとすること、想像すること、考えること。せめて、そういうことをやめてはいけないと、彼女は言った。僕も、そう思う。はじまりへの旅。森の中から「社会」へ行き、場所を変えることで混乱した映画の中の家族のように、どれだけテクノロジーが発展しても、「場所を変える」ことには痛みを伴うと思う。僕もそうだった。だけれど、それはいつだってはじまりへの旅となって、そのあとの人生を、彩ってくれると僕は信じている。だから人間は、誰かと居るんだなと、そう思う。痛みを和らげてくれるのは、いつだって、人間以外にはあり得ないから。僕らは多分、もと居た場所に帰るのではなく、もと居た人のもとへと、帰るんだと思う。

2020

忘れることのない年になる。忘れることのない数字になる。2020年、5月。ちょっとだけこれまでのことを考えてみようと思う。アルゼンチンに帰ってきてからしばらくして、この国では強制的な自宅待機が始まって、僕はいま、1週間に一度スーパーに買い出しに行くこと以外、外に出ることがない。50日が経過したらしい。もちろんこんなことは予想もしておらず、今年は、アルゼンチンで暮らす3年目の年で、これが最後になる。言葉も、環境も、満足のいく形を作ることができて、いざ「仕上げ」と思っていたら、こんなことになった。全てがうまくいく。疑いもなくそう思っていた僕は、この状況が迫ってきたとき、現実から目を背けずにはいられなかった。こんなはずでは、なかったのに。計画通りにいかなかった日々を惜しむのは、いつぶりだっただろうか。それからしばらく、いまぼくは、もしもこうなっていなかったら、来年以降恐ろしいことになっていただろうなと、そう思っている。神様がいるとは思わないけど、けれど多分、予定調和に全てが進むことを望んでいた僕に対して、神様か何かが、メッセージを送ってくれたのだと、ほんとうにそう思っている。僕はこの期間、本当に変わったと思う。自分がいかにすべてのことを置きにいっていて、できることしかせずに、平凡に1年を過ごそうとしていたのか。今考えると、成長を自ら止めているような自分に、恐ろしさを感じる。こんなことがなかったら、僕は新しい自分になって、アルゼンチンから日本に帰るということは、絶対にできなかったと思う。予定通り、70点くらいの日々を過ごして、1年を終え、日本に帰り、そして、日本で豪快に転んでいたと思う。絶対に、うまく行かなかったと思う。だから、本当に、もしこうなっていなかったらと想像すると、僕は結構怖いのだ。チャリティの企画を立ち上げて、50人もの知らない人と話すなんてことは、普段の僕では考えられない。電話が嫌いな僕は、テレビ電話はもっと嫌いだったし、それが今では、まったく異なる自分がいる。料理だってするし、両親に連絡だってする。これは、新しい自分なのだ。この期間には、ご褒美もあった。それが何かは言えないけれど、また5年後にこれを見返したときに、いまを懐かしむことが出来たらいい。人には、同じ道を歩いているだけでは、わからないことがある。しかも、人は自分がどの道を歩いているのかを、知ることができない。今回のように、何か外側から圧力がかかったとき、はじめて、僕らは自分の足元と、後ろと、そして前をみて、いまどこを歩いてるのかを知る。隣の道ですら、人は、自分には歩くことができない道だと決めつけ、ただ足を前に進めたり、もしくはそこに佇んだりする。僕はそれが嫌いだと思っていたのに、文字通り、自分が知っている道を歩こうと思っていた。別に成長をしたいとか、成功したいとか、うまくやりたいとか、そういうことじゃないんだけど、僕は満足のゆく暮らしがしたいし、もっと言うと、幸せになりたくて、多分そのためには、頻繁に、道を外すことが必要なんだと思う。それが人として、動物として、生命として正しいのかは一向にわからないけど。これからどれほどの時間、こうして、パソコンの前に向かうだけの日々が続くのかはわからない、5月。それでも僕は、神様かなんかがくれたメッセージを受け止めて、ご褒美を大切にしながら、ああでもないこうでもないと、生きていきたいと思う。2020きっと大事な年になる。

耳鳴り

耳鳴りがして、ハッとした。もっと若い時は…(という言葉を使おうとして手が止まる)27歳って、「若い時は」とか「子供の時はとか」、なんか昔を表現しづらい歳頃だなと、ふと思う。中途半端で。きっと35歳くらいになったら、「もっと若い時は…」なんて言いやすくなるのかな。お前はまだ若いし、お前はもう若くない。27歳って、そんな歳だ。それはいいとして、耳鳴りがした。昔はしょっちゅうなっていたんだけど、最近は、そういえばなかったなと、そう思う。アルゼンチンに来て、初めてかもしれない。今日は朝から、洗濯機に入れた洗濯物がビジョビジョの状態で汚いバケツの中に出されていて、発狂しそうになった日だ。「文字通り、理解が出来ない」と、スペイン語が咄嗟に出てきた自分に気づいたと同時に、文字通り、理解ができなかった。この国では、こういうことがよく起こる。これは、僕が日本人だからなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。「汚い」の基準がはるかに異なる国で暮らすのは、最初は苦労した。僕のルームメイトの整理整頓の出来なさは、椅子の上に乱雑に重ねられた衣服を見ればすぐにわかる。よくもまあ、そんなにバランスを保っているなと、感心してしまうくらいだ。大学の教材はベッドの上に重ねられて、無様な姿を見せている。僕は別に、そこまで整理整頓をするタイプではなかったけど、部屋の半分が異常な乱雑さであることを毎日目にすることで、異常に整理整頓をしないと気が済まなくなった。人間は、面白い。ストレス。僕はこれがよくわからない。ストレスって、感じていいものなのか?とか、俺ってストレス溜まっているのか?とか、そういうのは人に聞いてもわからない。体に異常をきたすときもあるけれど、それが本当にストレスによるものなのかは、一向にわからない。アルゼンチンの大統領が、変わろうとしている。今日は、選挙だった。これまでで一番、何だか仲間外れにされたような、そんな理不尽な感覚を覚えた。外国人として暮らしていて、尚且つ数年後にはこの国を去る人間が、この国の大統領選挙に興味を持つことで誰かにとってプラスになるのかと言われたら、正直わからない。「僕にはわからない」と、バカなふりをするのが楽だった。同じ家に住む友達に、大統領が変わりそうだね、と一言言った時、彼は少し空気を変えた。耳鳴りがしたのは、ちょうどその瞬間だった。外では、大統領が変わることを期待していた人々が、太鼓や、音楽や、叫び声をアイテムに、自分たちの存在を知らしめているように僕には映った。普段は異常なほど静かな日曜日の夜、今日は全く違う様子だ。これは一体、何なのだろう。政治的な会話ができるアルゼンチン人と、タブー視される日本人と、経済がよく破綻するアルゼンチンと、経済大国の日本。これを比べる行為自体が、愚かなことのように思えて仕方がない。でも、比べることしかできないのだ。どっちもいいところがあるよね、なんて悠長なことを言っている間に、僕は耳鳴りがして、生きているという事実を突きつけられる。さっきまでシリアスな顔をしていたあいつは、廊下でレゲトンを流している。「うるさい」。これが、僕がアルゼンチンに1年半住んでいた中で、もっとたくさん抱いた「感想」かもしれない。これはもう、僕の悲しい性なのだ。静かにしている時間が、何よりも尊い。それに気づいたのも、ここに暮らし始めてのことだけど。僕が今住んでいる環境では、15人ほどの大学生が暮らすペンションの中に「静寂」は一向に訪れない。僕の隣ではルームメイトが貧乏ゆすりをし、鼻くそをいじり、ギターを弾く。いつも同じ場所で音が外れるのを、自慢じゃないけど音感だけは優れている僕は敏感に感じるのだけれど、彼はきっと、気付いていない。「音が外れるのは、すごく気持ちが悪いんだ」なんて、そんなこと言えるはずがない。今度は、チャイムがなった。きっと誰かが宅配を頼んだのだろう。僕がアルゼンチンに住み始めた去年の頭には、家のチャイムが鳴ることなんて滅多になかったのに。今は、宅配サービスが発達して、ピンポン、ピンポンなっている。耳鳴りがして、ハッとした。なぜだかわからないけれど、僕は今アルゼンチンという国に暮らしているのだと、改めてその現実を突きつけられた気分だ。誰かにとっては大したことないアルゼンチンに住むという体験は、きっと想像以上に尊い時間である。またいつか耳鳴りがした時、今日の日のことを思い出すのかもしれない。明日からは、またいつもと変わらないアルゼンチンがやってくる。きっと、何事もなかったように。僕は外国人として、時に後ろめたさを感じながら、時に喜びを感じながら、あともう少しここに暮らしてみようと思う。

私は何者か

ほら、また変なことを言い始める。私は何者か、とか。実際「何者」でもないわけだけれど、どうやら人間にはそれぞれ特徴があって、それぞれ感じやすい感情があって、それぞれ半自動的に行なっている行動や思考があって、今言ったすべてを複雑に混ぜ合わせて出来上がる「こうやって生きたい」という「イメージ」があるみたいなのだ。多分、僕とあなたは、見た目だけじゃなくて、あらゆるものが異なる。問題は、自分のことを自分で知ることなんて出来んのか?である。だって自分が自分のことを考えるときは、少し色眼鏡をかけてみてしまったり、逆に極端に蔑んでしまったり、なかなか難しいのではないか。確かに、難しい。でも、例えばの話。勉強が好きではなかった幼少期を過ごした僕は、現在27歳になって、勉強ばかりするようになった。「知らないものを増やすためには、知っていることを増やさなければならない」と誰かが言ってたけど、最近になって、知っていることが圧倒的に増えてしまった僕は、圧倒的に知らないことが目立つようになって、どうやら「知識を得る」という作業に取り憑かれてしまったようなのだ。自分を守るためでもあるのかもしれない。何も知らない、じゃ済まされない段階にいるということもあるのかもしれない。それはともかく。この「勉強が嫌い」と思っていた過去の自分と、「勉強をしたい」と思っている今の自分は、何が異なるのだろうか。ここに「何者」のヒントがあるのだと思う。なぜ、変化したのか。その間に何があって、どこにやってきたのか。そういうことを考えると、自分がたった今立っている道が少しずつ鮮明に見えてきて、顔を上げると、少しだけ未来のことが見えたりする。それは幻覚かもしれないし、本当に待っている出来事なのかもしれないし、結局わからないのだけど、何かが見えている分だけ、足取りは確かになる。みんな、足取りを確かにしたくて必死だ。僕も。世の中から「暇」な時間が抹消された。暇な時間は、辛いし、ソワソワする。暇だったら、すぐ近くに置いてある四角い端末をさわれば、買い物も、勉強も、リラックスも、コミュニケーションも、何もかもができてしまう。なかなか「ちょー暇」をつくりだすことは、難しくなってしまった。「暇な時間」に、ぼーっと考えるのが大事なんじゃなかったっけ…?自分とは何者なのか?そもそもそんなことを考えている奴は、暇なのだろうか?それとも、忙しいのだろうか?僕は「暇」な時間を勉強に当てられるように、何があっても四角い端末を見れば勉強ができるような仕組みをたくさん作って「しまった」。オンラインでも、オフラインでも、暇な時間を勉強に当てられるように。なんて、矛盾しているのだろう。だけど一つだけ思うのは、いつも暇な奴は、暇の価値がわからないし、いつも忙しい奴は、忙しいことの価値がわからない。意図的に「暇」や「忙しい」をつくりだすことが、僕にとっての最適解なんじゃないかと、現時点ではそう思っている。時間の使い方を、考えないと…ああ、忙しい。

幻想を抱く人は幸せか不幸か

短期間で、3ヵ国を見た。もう行きたい国なんてあまりないと思っていたのは、新しい発見や気持ちが揺れ動くほどの何かを得ることは、もうないと思っていたからだ。とんだ勘違いだった。僕らが生まれた時には、「Made in Japan」や「TOKYO」というブランドは既に出来上がっていて、日本人としてのプライドは、アジアという狭い概念の中でしっかりと確立されていたように思う。なんだかんだ日本が一番だろ、そう思っていたのはおそらく僕だけではなくて、外を知らない人は特に、アジアの中の日本は、色々他国のことを聞きはするけれど、それでも日本が一番先進的で、綺麗で、発展した国だろうと、そう思っているに違いない。正直僕も、自分の目で見るまではそのように思っていたけれど、例えばシンガポールに来て、自分が恥ずかしくなってしまった。着いてすぐ、これ東京と一緒だなと、そう思ったけれど、時間が経ってからは、東京よりも未来があることに気が付いてしまった。笑ってしまうくらい、僕は勘違いしていたのだ。これからの日本は、人口が減って、年寄りのための国になる。別にそれ自体が悪いことではないのだけど、若者は選挙に行かず、自分が住んでいる国のことすら知らず、海の外を見ようとしない。それを作ったのもの結局、日本のおじさまたちが作った構造的な問題であり、その責任を取るのは若者だとそう思っていたけれど、もうこれからは、未来が見えている頭の良い若者は、日本にいる必要がなくなっていく。変なしがらみによって自分がやりたいことができるのに我慢したり、おっさんに文句を言いながら生きていく若者は、悪い意味で日本からいなくなっていくのかもしれない。でも僕らは、選挙に行かないから、そんなことを言う資格はないのだ。そうか、そうなのか?本当にそうなのだろうか?わからない。現実を見て、戦略を練って、動く。そんな当たり前のことが、できなくなっている。別にみんな、夢を持ちたいわけではない。ただ、幸せになりたいのだ。その可能性がある日本という国で、その可能性を持たずに死んでいく若者を、これまで放置してきたのは一体誰なのか。幸せになろうよと言うと、みんな幸せになりたいわけじゃないんだと、そう言われる。幸せを強要するなと、そう言われる。それは幸せになる可能性が極めて低い者たちに失礼だとそう思っても、彼らはそんな人々のことは知らないのだ。自分が持っている可能性の大きさを、知らないのだ。人間は、難しい。全くもって、シンプルではない。僕は、何かできるだろうか。何ができるだろうか。

ギターを背負った男は、泣く。

右を見ると、ギターを背負った男が、泣いている。泣きじゃくっている。彼の前に立っている女性の顔は見えないけれど、その後ろ姿が「哀しい」と言っている。人々とは違う世界にいる2人は、キスをして、抱き合って、またキスをして、そして泣く。お別れの時だなと、わかる。空港でしか書けない文章は、あるなと思う。空港でしか発起しない感情も、空港でしか見ることのない光景も、すべでが尊く美しい。いつものように僕は一人で空港を歩く。忘れ物もないし、VISAも持っているし、言葉も不自由がなくなって、少し自信ありげに、歩く。「ありがとう、カズ。良い旅を」。携帯の画面に出てきたそのメッセージの送り主は、空港まで送ってくれたタクシーの運ちゃんだ。「こっちに戻ってくるときまた来てやるよ!」と言ってくれたから、番号を交換した。いいのかなとか思いながら、まあここはアルゼンチンだしとか思いながら、迎えに来てくれるって言うしとか思いながら、こいつの稼ぎになるんだったら良いやつだしいいかとか、いろいろ思いながら。幸か不幸か、僕には泣きじゃくる理由もなければ、ギターもない。その分だけ少し身が軽い。いい加減、飛行機に乗るのも慣れてきたのだろうか。ちょっとめんどくさいのは、これからも変わらないのかもしれない。人と別れるときに泣きじゃくってしまうことは、なんと不幸で、なんと幸せなのだろうか。僕はこれまで、誰かとお別れをするときに泣きじゃくったことがあるかと思い返してみたけれど、んん、多分ない。学校の卒業式で泣いたことはないし、悲しいよりも、別の感情が勝ってしまう。もうちょっと面白くできないのか、卒業式、とか。どこかの地を離れたとき、僕は多分、誰かと別れるのが悲しくて涙を流すのではなく、場所と、そこで過ごした時間に対する涙だったのだろうと思う。誰かのとの別れは悲しいし寂しいけど、泣きじゃくることは、難しい。いつか僕は、誰かとの別れが悲しくて、泣きじゃくることはあるだろうか。不幸と幸福を、同時に味合うことができるだろうか。ギターを抱えた彼は、相変わらず今にも泣き出しそうな顔をしながら、一人、イミグレーションを歩いている。彼は今、不幸と幸福の、どちらを感じているのだろうか。彼の彼女と、同じだろうか。彼はこれから、どこへ向かうのだろうか。