サッカーと、アパルトヘイトと、僕と。


僕は、文章を書くのが好きで、本を読むのが好きで、そして、それをしてきた。

そこに制約はなかったし、好きなだけ読んで、好きなだけ書いてきた。でも最近、文章を書く機会が減って、本を読む量が圧倒的に少なくなった。ことに、気づいてしまった。

海外に行くことをきっかけに、僕は自分の書く文章を公に出すようになった。自分で見た世界のサッカーを、写真と文章を使って、思い切り表現した。とにかくいろんな人に見てもらいたかったし、読んでもらった人がどういう評価をするのかが気になった。


そして、つまらなくなった。


どうして本を読むのか、どうして文章を書くのか、その理由がわからなくなり、もし評価をされなかったら書かないのか、もし自分の学びに繋がらなかったら読まないのかと、いらない感情が頭の中を支配して、次第に書くのが、読むのが億劫になってしまった。プロでもないのに、自分の好きなことに苦しめられていたのだ。


現実と

本を読まなくなった理由として、人生を生きてきたことが挙げられる。これは日本に限ったことではないが、世の中には「現実」という、大きな、一方で小さな問題がある。学生を卒業して社会に出て、人間は皆この「現実」に直面する。では一体「現実」とはなんだろうか?と言われても僕にはわからないし、説明もできない。

この間、Facebookで自己啓発に関する、いわゆる「意識高い系」と言われる人間の記事を見ていて、気づいたことがある。僕はいつの間にか「笑われる人間」側から「笑う人間」側になっていたのだ。僕は、僕だけは、少なからずそういう人間ではないと一線を引き、しっかりと現実を受け止め、その上で努力をしていく人間だと、そんなちっぽけでくだらないプライドを提げて、日々悶々と訳も分からない「現実」を見てきたのだった。「現実」を説明できないくせに。したくもないくせに。

無性に文章が書きたくなって、無性に本が読みたくなって、久しぶりに本を大量購入して、そして好き勝手にこうして文章を書いてみている。まとまりがなくて何が言いたいのかわからないけど、やはり、楽しい。


アパルトヘイト

アパルトヘイトに関する本を読んだ。サッカーがアパルトヘイト解放の力になったノンフィクション。当時の黒人差別、アパルトヘイトの最も象徴と言われる「ロベン島」で起こった、夢のような、また悪夢のような物語だ。隔離刑務所である「ロベン島」で、FIFAの規定に基づく「サッカー協会」が誕生し、サッカーリーグを行うまでの奮闘と、そこからの苦悩、アパルトヘイトが廃止され「ロベン島」が解放されるまでの、嘘のようで本当の物語だ。この一冊を読むだけで、サッカーの本質をもう一度確かめることができる。「サッカーをしたい」という原動力が人を動かし、サッカーがあることで多くの苦悩に耐え、サッカーをプレーすることで人生を学ぶ。サッカーは本当に、人生そのものだと思う。


それでもなお

僕はこれから、どんな人生を送って行くことになるのか、自分でも分からないし、誰にも分からない。大事なのは自分の価値観を持つことと、それに従って生きていくことだと思う。自分の価値観で生きていくためには努力が必要で、きっと誰かに笑われて、批判をされるかもしれない。相手にすらされないかもしれない。それでもなお、必死に生きていくのだ。

サッカーも人生も、芸術と同じだ。ピカソの絵を美しいと思う人がいる一方で、汚いと思う人がいる。ペップのサッカーを「勇敢だ」と言う人がいて、クロップのサッカーを「勇敢だ」と言う人がいる。


自分はどの人生を美しいと思うのか。自分はどんな人に感銘を受け、どんな考え方を持っていて、どんな人生を生きてみたいか。それを基準に生きていこうと思う。美しいと思わない芸術を無理やり美しいと思う必要はないし、美しいと思わないサッカーに無理やり興奮する必要はない。


僕はまだ人生のことについて語れるほどの人間じゃないけど、これだけは分かった。まとまりのない、つまらない文章を書くことができて、幸せだったということだ。

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