もしも、サッカーからお金が消えたなら。


「ボール1つあれば…」

サッカーの魅力を伝える時に必ず使う言葉がこれだ。ボールさえあれば世界中だれでもプレーをすることができるし、他のスポーツに比べて場所の制約も少ない。それゆえ、世界で最もプレーされるスポーツの一つで、それはスポーツの域を超えている。サッカーをしてはいけない人なんて当然いないし、過去にサッカーをして怒られたのは、怪我で療養中の朝青龍だけである。

ただ近年は、「ボール1つあれば…」という言葉を使うのに少々抵抗があるのもまた事実だ。


FIFAが"汚い金"を使って、ああでもないこうでもないとサッカー界を動かしていた事実は、世界を大きく驚かせた。FIFAというのは、世界のサッカーを動かしている中心であって、もちろんこれまでにサッカーを通じた社会貢献だってしてきている。そんな美しきFIFAの会長が汚職なんて…というのは紛れもなくただの幻想であった。人間ほど愚かな生き物はどこを探しても見当たらない。これからも無くなることはないだろう。


過去の歴史を調べてみると、世界中にサッカーが伝わってすぐ19世紀初頭から、すでにサッカーにはお金が発生している。選手をお金で「買う」というお金から始まり、最新の施設を揃えるためのお金や、他のクラブと約束を結ぶお金、マーケティングとしてのお金…サッカーとお金は切っても切れないものなのである。

ただ、サッカーにお金さえなければ…と言えるほど単純なものではなく、プロの世界がなければサッカーはこんなにも美しいスポーツには成り得ていないのであるから皮肉なものである。


例えば日本では、サッカーをするのにはお金がかかる。「ボール1つあれば…」は通用しないのだ。公共の公園でサッカーができるのかと言われれば、球蹴りさえ許されていないのが現状があって、道端でサッカーをすれば誰かに迷惑な顔をされ、しまいには怒られる。怪我で療養中ならまだしも、こちらは道端でサッカーをするくらい健康でエネルギッシュだ。

グランドを借りようとするとお金が発生する。アホみたいに高い。お金を使ってサッカーをする違和感は未だに拭えない。ボーリングをするのにお金がかかるのはわかる。カラオケをするのにお金がかかるのもわかる。なぜサッカーがそれと同じように、ただボールを蹴って遊びたいだけなのにお金が発生するのが常識なのか…


「サッカーは、ボール一つあれば、世界中だれでもプレーができるからサッカーなのではないか。」


これが今僕の頭の9割を支配している大きな問題だ。

現代サッカーは、もうお金がなければ成り立たない。それは認めよう。そして、お金があるからサッカーに魅力が増してきたのも否めない。これからのサッカーはますます「科学的」になっていって、データがものを言い、数字が支配し、ロボットのような選手が増えて行く。勝つためには選手の個性なんて必要のない時代が来るのだ。レフェリーだって、今は"大量"に配置され、「レフェリーが絶対」の時代なんてとうに終わっている。本格的にビデオ判定なんてものが取り入れられた暁には、仕事を辞めてデモでもしようかと思っている(思っているだけである)。人類は、マラドーナの「神の手」を忘れたのだろうか。


人間がやるから芸術(サッカー)なのであり、予測がつかないから芸術(サッカー)なのである。


だから僕は今、ストリートサッカー文化に並々ならぬ興味を持っている。人類が科学的なサッカーに飽き始めるころ、再び歴史は繰り返される。南米のサッカーや、ストリートサッカーにある「芸術的」な側面が、今よりも重要さを増し、サッカーが再び「ボール1つ」でプレーできる日まで僕は死にたくない。


「お金を使っていないサッカーを死ぬほど見たい。」


長くなったが、つまりはそういうことだ。





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