恥を"書く"
このブログは、『サッカー』というテーマに絞って書いてきワケだけど、どうやら今日はなりふり構わず文章を書きたい気分なので、あえてテーマから逸脱したものを書いていこうと思う。
田舎生活
人が最も遊び盛りになる18歳から20代前半にかけて、僕はとんでもない田舎で学生生活を送っていた。18歳までの自分が心底嫌いだった僕は、逃げるように、東京から、誰も自分のことを知らない田舎の地で学生生活を送ることにした。僕にとっては、何を勉強するのかは重要ではなく、東京から出て、新しい自分をスタートすることの方が大切だった。田舎の学生がする遊びといえば、パチンコをするか、はたまたほとんどの人が顔見知りのようなクラブにいくか、もしくは家で気の知れた仲間たちと呑み明かすか、それくらいだった。幸か不幸か、それらの遊びには一切の興味が湧いてこず、僕は近所の子供達と遊ぶか、近くの海で考え事をするか、もしくはしたくもない勉強に明け暮れた。つまらなかったけど、僕にとってはそのつまらなさがとてつもなく心地よかった。
事情が変わったのはちょうど20歳になるくらいの頃だろうか。
僕は、本に出会った。
コテコテの自己啓発本
勉強をするための本を探しに書店に行った時、たまたま目に入ったコテコテの「自己啓発本」に心を奪われた。初めて小説以外の本を買ったのがその時で、僕はそれから「自己啓発本」にひたすら没頭した。1日に何冊も読むこともあったし、読みすぎてご飯を食べるのを忘れた日も何日もあった。こんな考え方があったのかと、それまでの人生をスーパーネガティブに生きてきた僕には衝撃だった。それから徐々にいろんなジャンルの本を読むようになって、学生時代の後半は全て読書に費やしたと言っても過言ではない。新しい本を読むたびに、新しい考え方が自分の中に根付いていって、それが自分の毎日に反映されていくのが楽しくてしょうがなかった。今思うと、学生の時にポジティブであり続けることなんてものすごく簡単で、僕は本を読むことで、これからの人生が全てうまくいくことをなんの疑いもせずに信じていたのだ。仕事をして、チャレンジをして、失敗を繰り返して、それでもなおかつ前向きに生きている人こそが本当のポイジティブなのだとわかったのは、仕事を始めてしばらく経ってからだ。僕は根っからのポジティブではなく、自分の中のネガティブも必要なものなのだと、ポジティブかネガティブかはどうでもいいことなのだと気づいたのもちょうどその頃だっただろうか。要は、なんでもいいから挑戦し続けることが大事なのだ。…ついついこう、僕が書く文章に自己啓発本の雰囲気が出てしまうのは20歳の頃の名残で、少し、恥ずかしい。
5年前の文章
前置きがだいぶ長くなってしまったが、僕は読書を好きになったのと同時に、自分でも文章を書くようになった。なんでも自分でやりたい性格の僕が本を読んで自分でも書くようになったのは、自然の流れなのかもしれない。当時の文章をたまに自分で見返すと、恥ずかしくて死にたくなるのだけど、それもまた一つ自分が成長をしているということで、5年後また自分の文章を読んで恥ずかしくならなかったら、それはそれでいやだなと思う。文章には『人』が出る。
先日、初めて雑誌で文章を書く機会をもらった。これまでとは違い、世に出てしまえば一生修正することをはできなくて、誰かの手に渡ってしまえば一生消し去ることができない緊張感と戦いながら、なんとか完成したものが手に入ったところだ。文章にはどんなジャンルのものでも、その人の『人柄』が出ると思う。僕はそれだから文章を読むのが好きで、僕はそれだから知人に文章を読まれるのが死ぬほど恥ずかしい。
百発百中
これまで、僕は誰かの書いた文章を読んで『人柄』を感じ、実際に会いに行ってしまうという行動に出たことが何度もある。その人の書いた文章だけを頼りに勝手に『信頼』をしたこともあるし、どこの誰かもわからない人に猛烈にシンパシーを感じたこともある。今の時代、ネットがあれば大抵の人にはコンタクトを取ることができるから、いきなり本の著者に連絡をして実際に会いに行ってしまったことも何度もある。会ってみると、やっぱり自分の好きな文章を書く人は実際に魅力的であることが多い。というか、百発百中だ。
何を言いたいのかというと、文章に『人柄』が出るのと同じように、誰かが何かを"生産"した時には、どんなものでも『人柄』が出てしまうものだということだ。だから、何かを自分が"生産”をするのには勇気と多少の羞恥心が必要で、誰かにそれを披露するとなるとなおさらである。雑誌に乗っているコラムはそれら「勇気」の塊であるし、本に綴られている長文はそれら「羞恥心」の塊であるのだと、僕は今回紙にのこる場所で文章を書いて、そう思ったのである。
そう思うと、世に出ている面白い文章もつまらない文章も、全てに愛着が湧いてくるのである。
生産とは
僕にとって"生産"とはサッカーそのものであり、僕が指揮をしてるチームには、僕の『人柄』や『人間性』がこれでもかと表れていると思う。選手たちに勇気がなければ、それは僕に勇気がないということだ。文章を書くことと同じように、5年後、今の自分のサッカーを見て恥ずかしくならなければ、僕はもう勝ち負けの世界から潔く消え去ろうと思う。どうか、5年後の僕のサッカーが魅力的でありますように。
と、結局サッカーの話になってしまったので、どうやらまだこのブログのテーマは維持することができたみたいだ。
これからも僕は本業が何であれ、文章を書くことも、文章を読むことも一生やめられないと思う。恥ずかしさの先に何かがあることを、僕は知ってしまったのだから。それをもっとも簡単に経験できるのが、文章なのだ。
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