表現

何かを通して「自分を表現する」という行為は、なにか特別な才能を持った人にしか成し得ないものなのだと、僕らは教えられる。それは何も、高度な表現行為(例えばアートとか、音楽とか)に限った話ではなく、服装を通して「自分を表現する」とか、自分が思っていること大衆に向けて発言するとか、各人が持っている「自分」を表す行為の全てが、教育とともに抹消されていく。


僕は、長いことずっと、そう思っていた。


「表現」という言葉は、自分にとっては縁のない、もしくは遥か遠くにある言葉の一つで、特別才能もセンスもない自分が「表現」をするなんて、あり得ないと思っていた。ということに「表現」という言葉を意識するようになるまで気が付かなかった。だから例えば芸術家とか、アーティストとか、はたまた何万人もの人を熱狂させるスポーツ選手とか、そういう人々に強い憧れを持った。


自分が好きな服を、日本人の子供は着ることが出来ない。憧れの髪型にすることも、何か好きなアクセサリーを身に着けることも、子供のうちはする事ができない。自分の意見なんてものは求められないし、みんなが言っていること、教科書に書いてあること、先生が言っていることを「自分の意見」として頭に取り入れ、そして一定期間だけ覚えておく。違うことを考えていても、僕らはそれを「表現」することは許されなかった。


僕ら人間は、「表現」を通して「自分」というものを知る。


これは全く気取った言葉ではなくて、多分本当にそうだ。小さな時から「表現」をしていると、痛みや失敗を伴うことになる。だっさい髪型にしたり、度が過ぎた服装をしたり、時には自分の表現で誰かを傷つけてしまうこともあるかもしれない。でも、それを小さな頃から繰り返すことで、人間は唯一自分という人間を知る事ができる。自分に似合う髪型を知るには、試すしかない。自分の体系に合ったファッションを知るには、試して、失敗していくしかない。その結果、自分という人間は、服装や髪型を通して「表現」をする必要のない人間だと、気付くこともあるだろう。人間は、例えばそういう服装や髪型を通して、自分という存在を知るのだ。


自分を知らない人は、不幸だし、その上ダサい。自分を知っている人は、幸せだし、男前で美人だ。日本という国は、自分のことを「幸せだ」と感じられる人が少ないと言われている。もし本当にそうならば、原因は自分のことを知らないからだ。「表現」という「実験」を通して、失敗をすることが出来なかったからだ。個性がないということは、つまり「ダサい」ということだ。日本は、どんどんどんどん、ダサくなっていくのだろか。そして、幸せを感じられなくなっていくのだろうか。


大人になって、お金を持って、初めて洋服を自分で選ぶ人間は、「センス」なんてものは持ち合わせていない。大人になって、何かで人前に出るようになって、初めて自分の発言をする人は、みんなと同じようなことしか言う事ができない。


スポーツ界を見てみると、それが本当によくわかる。それは多分「スポーツ」というものが、アーティストがするような「表現」として認識されていないから、余計にこういう状況になってしまうのだと思う。僕が子供の頃やっていたサッカーは、多分サッカーじゃなかった。少なくとも、「サッカーを通して自分を表現する」という意識は、微塵もなかった。それなら、僕がサッカーをしていた理由は、一体どこにあったというのだろうか。自分のことを悲観的にみることしか出来ず、サッカーという幼少期を全て捧げたようなものを通して「表現」が出来ていなかった自分は、ただボールを蹴るという「動作」をしていただけで、不幸だった。不幸というと語弊があるから、「幸せではなかった」と言っておこうか。


人には個性がある。これは意識高い系の発言ではなく、個性なんていうものは「ない」と言う方が難しい。それを「何か」を通して「表現する」ことが許された時、人はいろんな意味で「かっこよく」なり、「キレイに」なっていくんだと思う。でもそれには「時間」や「実験」が必要で、自分という人間を表現するためにベストなさじ加減は、他人に教えてもらう事ができないもので、自分で考えて、試して、失敗して、を繰り返すしかない。いきなりマネキンが着ているおしゃれな服をそのまま身に付けても、かっこよくなってなれないんだから。


今、やっと、僕はそのことに気づく事ができた。遅いかもしれないけど、今からでも「自分を表現」して、実験を繰り返していくしかない。そこには多分、痛みが伴うけれど。


幸せになるということは、自分を知り、そしてその個性を存分に発揮できる場所で生きていくことなのかもしれない。「幸せ」ってなんだ?と、絶賛幸せになりたかった僕がずっと考えて導き出した答えの一つだ。表現をすることで手にする事ができた。


EXPRESS YOURSELF


僕らにとっては簡単なことではないけれど、サッカーというもの通して、僕は「表現」をしていきたい。僕の「表現」が、誰かを幸せにしたり、感動させたり、熱狂させたりすることが今の僕の目標だ。そっち側の人間に、なりたいと思う。


今日、アルゼンチン大使館に行った。そこには、久しぶりに感じる空気があった。アルゼンチン人を久しぶりに目の前にして、日本に帰ってきてから初めて「早くアルゼンチンに戻りたい」と、そう思った。僕は多分、今日本にいるべきじゃないんだと思う。まだまだ、僕の「表現」で人々の心を動かせるほど、大した人間ではない。下に、下に根を張って、深い部分からの「表現」は、今の僕にはまだ出来ない。だから今、日本にいたらいけないんだと思う。根拠は、全然ない。


あと少しで、僕はまたあそこに帰る。日本にいる期間でも色々なことがあったけど、時間は進み、準備をしなければならない時が来たように思う。


怖くても、なんでもいいから行くんだよ。とにかく行くんだ。



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